フランツ・シューベルト
ピアノ・ソナタ(D958, D959, D960)
ヴァレリー・アファナシエフ(Pf)

フランツ・シューベルトが残した手記の中に「ぼくの夢」と題された文章がある。
夢の中で「ぼく」は父親にピクニックに連れて行ってもらう。そこはぼくの父のお気に入りの庭で、大勢の人々が楽しそうに過ごしていた。しかし、なぜかぼくはその場に馴染むことができない。父はぼくに訊ねる。ここが気に入ったかと。ぼくが何も言えずにいると、父はもう一度同じ質問をした。ぼくはここが嫌いだと答える。すると、父は激怒してぼくをいじめた。ぼくは逃げ出して、異国の地を彷徨うことになった。ぼくの心は悲しみで一杯であったけれども、同時にぼくを受け入れてくれなかった人々に対する無限の愛に満ち溢れていた。ぼくが愛を歌おうとすると、それは悲しみの歌になった。けれども、ぼくが悲しみを歌おうとすると、それは愛の歌になった。こうしてぼくの心は二つに引き裂かれた。
シューベルトは、人から受け入れてもらえない悲しみと、彼が「無限の愛」と表現する崇高な感情が隣同士の間柄にあることを見抜いていた。そして、彼は現実を直視することを恐れ、その二つのものに心を引き裂かれそうになりながら短い人生を過ごした。彼の人生観は、特に晩年の作品の中に現れている。交響曲「未完成」、弦楽四重奏曲「死と乙女」、最後の三つのピアノ・ソナタなどである。
シューベルトの変ロ長調のピアノ・ソナタ(D960)の第一楽章は、のんきな歌で始まる。この歌は夢の中に出てくる「ぼく」の悲劇的な人生と決して無縁ではない。「ぼく」は自分自身のもとに刻々と迫ってくる現実を直視しないからこそ、のんきでいられるのだ。やがてこの楽章はささやかな高まりを迎えるが、たちまち暗雲が不気味な三連符と共に立ちこめ、「ぼく」は悲しみの穴の中に急降下する。
それから何度かの幸せがやって来たし、何度かの不幸せがやって来た。左手で八分音符が連打されるピアニッシシモ(ppp)の四小節間は本当に孤独で辛い。しかし、「ぼく」が本当に現実に気づき始めるのは、この楽章の最後の箇所かもしれない。弛緩と緊張を神経症的に繰り返しながら、やっと何かに気づく瞬間が訪れる。それは苦しみを生み出す源のようなものかもしれないし、同時に、人生を喜びで照らす明かりのようなものかもしれない。その正体を見分けることができないまま、この楽章は終了する。そして、続く第二楽章で「ぼく」は深い井戸の底をさまようことになる。
いったい、この人生は何だというのだろうか。喜びは意味もなく現れ、意味もなく過ぎ去っていく。ツォンカパが『道次第大論』で引用するチャンドラゴーミン作『弟子への書簡』には次のことが言われている。我々がかつて経験しなかったような幸せなど何一つなく、また、我々がかつて経験しなかったような不幸など何一つない。それなのに我々は輪廻というものに執着しているのだと。
「この世界を百回めぐって来たことがない衆生が果たして存在するのだろうか? これまでに幾度も経験されなかった幸せなど一体何があるというのか? 白くて綺麗な羽毛といったような贅沢品の内で一体何を得なかったというのか? しかも、仮に得られたとしても欲望は増大するばかりだというのに。」
「これまでに幾度も経験されなかった苦しみは何もない。この世界には真の充足を与えてくれる愛すべき人達など存在しない。誰かの餌食になって倒れたことのない生き物などいない。それなのに、どうして輪廻する者達の中には欲望を断つ者がいないのだろうか。」
ジャムヤンシェーパは『量評釈第二章考究』の中で同じ詩節に言及し、ここで説かれる教えを大乗仏教の修道論の中に位置づけている。彼は、始まりのない無限の輪廻の中で全ての生き物が自分の母であるという大乗の教えを、この詩節のすぐ隣に並べる。彼はこう言う。輪廻に始まりがないという考えから、全ての生き物が幾度も自分の母であったはずだということが分かり、それと共に、輪廻における安楽を望む気持ちが失せ、すると、全ての生き物から受けた恩恵に報いたいという思いや、彼らに対する慈悲が起こる。そして、こうした思いを抱く者にとって信頼できる唯一の存在---プラマーナとなった人---は仏陀のみであると。
ジャムヤンシェーパが描く大乗菩薩にとって、この世に対する絶望と、慈悲という崇高な思いは、直接連続するものであった。ちょうどシューベルトの夢の中の「ぼく」が見抜いていたように。
結局「ぼく」はどうなったのだろうか。変ロ長調ソナタの第三楽章は繊細さを伴った(con delicatezza)諧謔的な曲である。ここを経て第四楽章に入ると、ようやく前進が始まる。「ぼく」は悲しみに負けてしまったのではないし、決して悲しみを忘れたのでもない。悲しみを自分の内にしまいながら、自分の胸の内に起こった崇高な思いを信じて生きてゆく姿がそこにある。もはや不吉な三連符におびえたりはしない。
最後に幾つもの不協和音を踏みつけながら上昇して辿り着いた先で「ぼく」が見出したものは何か? それは第一楽章の冒頭と同じ「シ♭-レ-ファ」の和音である。輪廻のように、それは再現される。「ぼく」は始まりと同じ懐かしい風景を眺める。でも、その「ぼく」は始まりの時と同じ「ぼく」ではない。
そして、いつか「ぼく」は夢を見ることすら止めるのだろう。シャーンティデーヴァがこう述べているように。
「愛しい人と憎らしい人のために、私はひとたびならず罪悪を犯してしまった。この全ての人を捨てて去らねばならないことを私は知らなかった。」
「私にとって憎らしい人達はやがていなくなり、愛しい人もやがていなくなるであろう。そして、私もやがていなくなるであろう。こうして全ての人がいなくなるであろう。」
「およそ経験された物事は全て記憶の中へと去っていく。夢の中で経験された物事と同じく、全ての過ぎ去ったものは決して二度と見られない。」