ぼくは何を信じて生きていけば良いのか

ジョン・アーヴィング『ホテル・ニューハンプシャー』

それからエリオット公園にも草が萌えるようになって、ある暖かい夜、ぼくはエッグがもう眠っているのだと思って窓を開け、月と星々を眺め、コオロギとカエルの鳴き声に耳を傾けた。するとエッグが言った。

「開いた窓の前を通過し続けるんだろ」

「まだ起きていたのか?」とぼくが言った。

「眠れないよ」とエッグは言った。「ぼくには自分がどこに向かっているのか想像もつかないし、それに、そこがどんなところなのかも分からないんだ」彼は今にも泣き出しそうだった。だから、ぼくは言った。

「しっかりしろよ、エッグ。そこはきっと〈素晴らしい〉ところなんだよ。お前はまだ〈街〉で暮らしたこともないじゃないか」

「それは分かっているけれど」彼は少し鼻をすすりながらそう言った。

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「いいかい、そこに行けばね、ここですること以上にもっとすることがあるんだよ」ぼくはエッグに約束した。

「ここにだってすることはたくさんあるよ」彼は言った。

「でも、こことはだいぶ〈違ったもの〉になるさ」ぼくは彼に言った。

「どうしてその人達は窓から飛び降りてしまうの?」彼が聞いた。そこで、ぼくはそれが単なる物語に過ぎないのだと説明した。といっても、彼にはメタファーという観念がうまく通じなかったようだけれど。

John Irving, The Hotel New Hampshire (New York: Ballantine Books, 1995), p. 197


もはや扉は閉ざされた

ジョン・アーヴィング『ホテル・ニューハンプシャー』

ぼくの三十歳の誕生日のために、リリーはドナルド・ジャスティスによる詩を贈ってくれた。リリーはその終りの部分が気に入っていて、ぼくにぴったりだと思っていたのだ。当時ぼくは不機嫌になっていて、リリーにこんな返事を送りつけた。「このドナルド・ジャスティスっていうのはいったい何者なんだい? 彼が言っていることがどれも〈ぼくたち〉にぴったり当てはまるっていうのはどういうわけなの?」でも、それは確かにどんな詩の最後に来ても素晴らしいような終りであり、ぼくも自分が三十歳になった頃にはまさにその通りに感じたのだった。

今日で三十歳になったぼくは束の間、
木々がぎらぎらと輝くのを見た。
まるでケーキに立てられたロウソクのようだった。
太陽が空から沈んで行く時のことである。

ほんの一瞬のきらめきであったけれど、
その光が失われてしまう前に、
願い事をする時間があったのだが、
いったい何を願えば良いのか分からなかった。

ロウソクの光に照らされた
きれいなテーブルクロスの上に身を乗り出して、
一息で炎を吹き消したあの頃は
分かっていたはずなのに。

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それから、フランクが四十歳になるとき、ぼくはドナルド・ジャスティスの詩を同封した誕生日祝いを贈ることになる。それは「四十歳の男たち」という詩である。

四十歳になった男達は
そっと扉を閉めることを知るようになる。
もはや戻って来ることのない
部屋へと通じる扉を。

John Irving, The Hotel New Hampshire (New York: Ballantine Books, 1995), pp. 389-390


夢のピクニック

フランツ・シューベルト
ピアノ・ソナタ(D958, D959, D960)

ヴァレリー・アファナシエフ(Pf)

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フランツ・シューベルトが残した手記の中に「ぼくの夢」と題された文章がある。

夢の中で「ぼく」は父親にピクニックに連れて行ってもらう。そこはぼくの父のお気に入りの庭で、大勢の人々が楽しそうに過ごしていた。しかし、なぜかぼくはその場に馴染むことができない。父はぼくに訊ねる。ここが気に入ったかと。ぼくが何も言えずにいると、父はもう一度同じ質問をした。ぼくはここが嫌いだと答える。すると、父は激怒してぼくをいじめた。ぼくは逃げ出して、異国の地を彷徨うことになった。ぼくの心は悲しみで一杯であったけれども、同時にぼくを受け入れてくれなかった人々に対する無限の愛に満ち溢れていた。ぼくが愛を歌おうとすると、それは悲しみの歌になった。けれども、ぼくが悲しみを歌おうとすると、それは愛の歌になった。こうしてぼくの心は二つに引き裂かれた。

シューベルトは、人から受け入れてもらえない悲しみと、彼が「無限の愛」と表現する崇高な感情が隣同士の間柄にあることを見抜いていた。そして、彼は現実を直視することを恐れ、その二つのものに心を引き裂かれそうになりながら短い人生を過ごした。彼の人生観は、特に晩年の作品の中に現れている。交響曲「未完成」、弦楽四重奏曲「死と乙女」、最後の三つのピアノ・ソナタなどである。

シューベルトの変ロ長調のピアノ・ソナタ(D960)の第一楽章は、のんきな歌で始まる。この歌は夢の中に出てくる「ぼく」の悲劇的な人生と決して無縁ではない。「ぼく」は自分自身のもとに刻々と迫ってくる現実を直視しないからこそ、のんきでいられるのだ。やがてこの楽章はささやかな高まりを迎えるが、たちまち暗雲が不気味な三連符と共に立ちこめ、「ぼく」は悲しみの穴の中に急降下する。

それから何度かの幸せがやって来たし、何度かの不幸せがやって来た。左手で八分音符が連打されるピアニッシシモ(ppp)の四小節間は本当に孤独で辛い。しかし、「ぼく」が本当に現実に気づき始めるのは、この楽章の最後の箇所かもしれない。弛緩と緊張を神経症的に繰り返しながら、やっと何かに気づく瞬間が訪れる。それは苦しみを生み出す源のようなものかもしれないし、同時に、人生を喜びで照らす明かりのようなものかもしれない。その正体を見分けることができないまま、この楽章は終了する。そして、続く第二楽章で「ぼく」は深い井戸の底をさまようことになる。

いったい、この人生は何だというのだろうか。喜びは意味もなく現れ、意味もなく過ぎ去っていく。ツォンカパが『道次第大論』で引用するチャンドラゴーミン作『弟子への書簡』には次のことが言われている。我々がかつて経験しなかったような幸せなど何一つなく、また、我々がかつて経験しなかったような不幸など何一つない。それなのに我々は輪廻というものに執着しているのだと。

「この世界を百回めぐって来たことがない衆生が果たして存在するのだろうか? これまでに幾度も経験されなかった幸せなど一体何があるというのか? 白くて綺麗な羽毛といったような贅沢品の内で一体何を得なかったというのか? しかも、仮に得られたとしても欲望は増大するばかりだというのに。」
「これまでに幾度も経験されなかった苦しみは何もない。この世界には真の充足を与えてくれる愛すべき人達など存在しない。誰かの餌食になって倒れたことのない生き物などいない。それなのに、どうして輪廻する者達の中には欲望を断つ者がいないのだろうか。」

ジャムヤンシェーパは『量評釈第二章考究』の中で同じ詩節に言及し、ここで説かれる教えを大乗仏教の修道論の中に位置づけている。彼は、始まりのない無限の輪廻の中で全ての生き物が自分の母であるという大乗の教えを、この詩節のすぐ隣に並べる。彼はこう言う。輪廻に始まりがないという考えから、全ての生き物が幾度も自分の母であったはずだということが分かり、それと共に、輪廻における安楽を望む気持ちが失せ、すると、全ての生き物から受けた恩恵に報いたいという思いや、彼らに対する慈悲が起こる。そして、こうした思いを抱く者にとって信頼できる唯一の存在---プラマーナとなった人---は仏陀のみであると。

ジャムヤンシェーパが描く大乗菩薩にとって、この世に対する絶望と、慈悲という崇高な思いは、直接連続するものであった。ちょうどシューベルトの夢の中の「ぼく」が見抜いていたように。

結局「ぼく」はどうなったのだろうか。変ロ長調ソナタの第三楽章は繊細さを伴った(con delicatezza)諧謔的な曲である。ここを経て第四楽章に入ると、ようやく前進が始まる。「ぼく」は悲しみに負けてしまったのではないし、決して悲しみを忘れたのでもない。悲しみを自分の内にしまいながら、自分の胸の内に起こった崇高な思いを信じて生きてゆく姿がそこにある。もはや不吉な三連符におびえたりはしない。

最後に幾つもの不協和音を踏みつけながら上昇して辿り着いた先で「ぼく」が見出したものは何か? それは第一楽章の冒頭と同じ「シ♭-レ-ファ」の和音である。輪廻のように、それは再現される。「ぼく」は始まりと同じ懐かしい風景を眺める。でも、その「ぼく」は始まりの時と同じ「ぼく」ではない。

そして、いつか「ぼく」は夢を見ることすら止めるのだろう。シャーンティデーヴァがこう述べているように。

「愛しい人と憎らしい人のために、私はひとたびならず罪悪を犯してしまった。この全ての人を捨てて去らねばならないことを私は知らなかった。」
「私にとって憎らしい人達はやがていなくなり、愛しい人もやがていなくなるであろう。そして、私もやがていなくなるであろう。こうして全ての人がいなくなるであろう。」
「およそ経験された物事は全て記憶の中へと去っていく。夢の中で経験された物事と同じく、全ての過ぎ去ったものは決して二度と見られない。」

いったい何がほんとうのさいわいか

2010年9月16日
ゲシェ・ロサン・ツルティム師

「阿羅漢」とは「敵を滅ぼした者(ダ・チョム・パ)」を意味する言葉です。では、いったい「敵」とは何でしょうか。それは自分自身の心に起こる煩悩のことを指しています。その敵を滅ぼした人のことを「阿羅漢」と呼びます。「私の敵は誰それである」という考えは本当は正しくありません。「敵」であると思ったその相手は父であり、母であり、自分に愛情を注いでくれる存在なのだと思うべきです。

では、本当の敵は何でしょうか。本当の敵とは煩悩、とりわけ、我執です。一体なぜそれが敵なのでしょうか。それは我執こそが私たちに、望みもしない苦しみをもたらすからです。私たちが病に苦しむのはこの肉体を得たからです。この肉体は業を積んだ結果として得られたものであり、私たちが業を積むのは我執のゆえであり、無明のゆえであります。無明は今生における様々な苦しみを生み出します。来世においても次々に苦しみをもたらします。誰もそのようなものは望んではいないにもかかわらず、苦しみは生み出されます。こうした一切の苦しみは業と煩悩によって形成されるものです。苦しみの作者は業と煩悩です。

業と煩悩を滅ぼすのが、無我を知る智慧です。それらを滅ぼしたときにこそ、究極の幸せがやって来ます。そのときには輪廻の苦しみもありません。少しも不快なことはありません。そこでは、いつまでたっても幸福が続くでしょう。私たちは永遠の幸せをつくらなければなりません。

私たちが普段経験する幸せとは、ほんの束の間の幸せに過ぎません。ときに「ああ幸せだ」と思うこともあるでしょう。外的な物質や財産に恵まれ、病気に悩まされないならば、そのとき人は幸せを感じるかもしれません。しかし、それは安定しないものです。もし今そのような楽な状態にあったとしても、洪水や火災が発生するやいなや、全財産が失われてしまうといったこともあります。実際、そうした災害は世界のあちこちで起こっています。洪水が一瞬にして家屋も財産も全て奪い去ってしまうのを君は知っているでしょう。あるいは、火事が起きて全てを灰にしてしまうこともあります。そのようなときには、いくら財産を所有していたとしても全てが無駄になってしまいます。

このように、今仮に束の間の幸せを得ていたとしても、それは瞬時になくなるかもしれないのです。というのも、世間的な人の幸せとは外的な存在によるものだからです。

一方、仏陀や阿羅漢にとっての幸せとは心の幸せです。それは内なる気持ちから来るものです。例えば、他者を利する気持ち、他者に教えを授けるときの気持ちです。これらによって自己も幸せとなり、他者も幸せとなります。内なる心から生まれる幸せは尽きることがありません。私たちが知っている世間的な幸せとは、外的な物質や親類や友人といったものの存在に依存して起こるものです。そうした幸せに甘んじている限り、内なる心から来る幸せを享受することはできません。

初地以上の境地に達した菩薩、声聞の聖者達、諸仏といった方々は内なる幸せを享受する者達です。外的な幸せをかえりみず、慈悲心や菩提心に基づく内なる平安を享受します。

「以上のようにして、全ての苦悩と疲弊を取り除く菩提心という馬に乗って、幸せから幸せへと進んで行くのであるならば、一体いかなる智慧ある者が絶望することがあろうか。」(『入菩薩行論』7.30)

菩提心さえあれば、悲しみや苦しみを全てなくすことができます。たとえ苦しみに打ちひしがれた状況においても、疲弊した状況においても、菩提心を頼りとし、そこに思いを集中すれば、気分が良くなるものです。そうして自分自身も幸せとなり、他者を幸せにすることもできます。そして、最終的には世界中を幸せにすることができるのです。

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