一切相智のためのデコンストリュクシオン
ドゥラを学習していると、ついつい「つまりこれは議論のための議論なんだな」と合点したくなることも多い。『セードゥラ』の「帰謬法の規定・小篇」などを読んでいて困惑させられるのは以下のような形式で語られる議論である。
「『AはBであることになる。Cであるゆえに』という帰謬法はDであることになる。Eであるゆえに」という帰謬法はFであることになる。Gであるゆえに。
この種の込み入った議論になると、ゴマン学堂出身のゲシェ・ララムパですら、さじを投げてしまうようなものも多いようである。
『セードゥラ』の中盤にあるこのような複雑極まりない議論を追っていると、最初に気づくことが一つある。それは、「一切相智」を主題とする議論(རྣམ་མཁྱེན་ཆོས་ཅན་་་་་)がやたらと多いということである。とは言っても、それらは一切相智そのものに関する議論というわけではない。例えば、次のような問題がある。
「一切相智---主題---は事物であると理解するプラマーナであることになる。プラマーナであるゆえに」という論証式に対して回答者が「その通り」と回答した場合、いったい回答者は何を認めたことになるのか。
ここで議論の的となっているのは、決して一切相智のあり方、特質、定義、等々ではない。むしろ、問答のルールをどのように定めるかが問題となっている。
ガワン・ドルジェ師の見解によると、一切相智を主題とするこのような議論が頻出するのには理由がある。それは、学習者を一切相智という概念に馴染ませ、それを将来いつか獲得するための習気を置くためである。最初、ドルジェ師の見解は突飛であるように思われたが、次のような『セードゥラ』の記述を見ると、それが全く根拠のないものではないことが分かる。
「帰謬法の規定を決択することには目的がある。それは、一切法を一時に現証する究極の智慧、すなわち、一切相智を獲得するためだからである。」
そして、上の箇所に続いて、ガワンタシはジュニャーナガルバの『二諦分別論』を引用する。これらの記述は「帰謬法の規定・小篇」に唐突に現れるものである。
はたしてドゥラの問答が一切相智の獲得のために資すると言えるかどうか、自分には判断できないけれども、初学者が何度も練習させられる「堂々巡り」の議論にいかなる意味があるのかということを考えるとき、今最も説得力を感じるのはG. B. J. Dreyfusによる次のような説明である。
"As we noticed in the previous chapter, the only time a debate can be formally adjudicated is when the defender's thesis is directly contradicted. In the other cases, the outcome may be clear but there are no logical criteria for determining the decision. This privileging of direct contradictions differs from the Indian practices, in which the outcome was often decided by reference to formal fallacies. I believe that this emphasis on direct contradiction is not unrelated to the deconstructive philosophical strategy that Tibetan debates tend to promote" (The Sound of Two Hands Clapping, p. 244).
強調箇所でDreyfusが示唆的に述べているのは、ドゥラの問答が「脱=構築」的な性格を有している(かもしれない)ということである。
例えば、音声とは「耳識によって聞かれる対象」であると定義した上で、音声に様々な下位分類を設けるとする。すると、中には、耳識によって聞かれないような音声もあるのではないかという問題が発生する。例えば、今まさに読誦されているのではない『現観荘厳論』の文言(འདོན་བཞིན་པ་མ་ཡིན་པའི་གང་ཟག་གི་རྒྱུད་ཀྱི་བསྟན་བཅོས་མངོན་རྟོགས་རྒྱན་)は音声ではあるけれども、耳識の対象ではない。それでは、音声とは「耳識によって聞かれる対象」であるという、そもそもの定義は間違いであるのか。もしそれが間違いであるとするならば、阿毘達磨論書に書いてあることも間違っているのか。
結局の所、定義というのはたいてい便宜的に与えられたものに過ぎず、たった一つの定義で当該の概念の特質を全て言い表すことなど殆ど不可能に近い。その不可能性を実感した上で、より高度な理解に達すること。これがドゥラの問答の目指していることなのであるとすれば非常に納得がいくように思う。
ところで、夏目漱石は「現代日本の開化」という講演の中で非常に興味深いことを述べている。「定義」というもののあり方について考える上では非常に示唆に富んだ指摘である。
「もっとも定義を下すについてはよほど気を付けないと飛んでもない事になる。これをむずかしく言いますと、定義を下せばその定義のために定義を下されたものがピタリと糊細工のように硬張ってしまう。複雑な特性を簡単に纏める学者の手際と脳力とには敬服しながらも一方においてその迂闊を惜しまなければならないような事が彼らの下した定義を見るとよくあります。その弊所を極く分り易く一口にお話すれば生きたものを故と四角四面の棺の中へ入れて殊更に融通が利かないようにするからである。」




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