July 06, 2009

一切相智のためのデコンストリュクシオン

 ドゥラを学習していると、ついつい「つまりこれは議論のための議論なんだな」と合点したくなることも多い。『セードゥラ』の「帰謬法の規定・小篇」などを読んでいて困惑させられるのは以下のような形式で語られる議論である。

「『AはBであることになる。Cであるゆえに』という帰謬法はDであることになる。Eであるゆえに」という帰謬法はFであることになる。Gであるゆえに。

 この種の込み入った議論になると、ゴマン学堂出身のゲシェ・ララムパですら、さじを投げてしまうようなものも多いようである。

 『セードゥラ』の中盤にあるこのような複雑極まりない議論を追っていると、最初に気づくことが一つある。それは、「一切相智」を主題とする議論(རྣམ་མཁྱེན་ཆོས་ཅན་་་་་)がやたらと多いということである。とは言っても、それらは一切相智そのものに関する議論というわけではない。例えば、次のような問題がある。

「一切相智---主題---は事物であると理解するプラマーナであることになる。プラマーナであるゆえに」という論証式に対して回答者が「その通り」と回答した場合、いったい回答者は何を認めたことになるのか。

 ここで議論の的となっているのは、決して一切相智のあり方、特質、定義、等々ではない。むしろ、問答のルールをどのように定めるかが問題となっている。

 ガワン・ドルジェ師の見解によると、一切相智を主題とするこのような議論が頻出するのには理由がある。それは、学習者を一切相智という概念に馴染ませ、それを将来いつか獲得するための習気を置くためである。最初、ドルジェ師の見解は突飛であるように思われたが、次のような『セードゥラ』の記述を見ると、それが全く根拠のないものではないことが分かる。

「帰謬法の規定を決択することには目的がある。それは、一切法を一時に現証する究極の智慧、すなわち、一切相智を獲得するためだからである。」

 そして、上の箇所に続いて、ガワンタシはジュニャーナガルバの『二諦分別論』を引用する。これらの記述は「帰謬法の規定・小篇」に唐突に現れるものである。

 はたしてドゥラの問答が一切相智の獲得のために資すると言えるかどうか、自分には判断できないけれども、初学者が何度も練習させられる「堂々巡り」の議論にいかなる意味があるのかということを考えるとき、今最も説得力を感じるのはG. B. J. Dreyfusによる次のような説明である。

"As we noticed in the previous chapter, the only time a debate can be formally adjudicated is when the defender's thesis is directly contradicted. In the other cases, the outcome may be clear but there are no logical criteria for determining the decision. This privileging of direct contradictions differs from the Indian practices, in which the outcome was often decided by reference to formal fallacies. I believe that this emphasis on direct contradiction is not unrelated to the deconstructive philosophical strategy that Tibetan debates tend to promote" (The Sound of Two Hands Clapping, p. 244).

 強調箇所でDreyfusが示唆的に述べているのは、ドゥラの問答が「脱=構築」的な性格を有している(かもしれない)ということである。
 例えば、音声とは「耳識によって聞かれる対象」であると定義した上で、音声に様々な下位分類を設けるとする。すると、中には、耳識によって聞かれないような音声もあるのではないかという問題が発生する。例えば、今まさに読誦されているのではない『現観荘厳論』の文言(འདོན་བཞིན་པ་མ་ཡིན་པའི་གང་ཟག་གི་རྒྱུད་ཀྱི་བསྟན་བཅོས་མངོན་རྟོགས་རྒྱན་)は音声ではあるけれども、耳識の対象ではない。それでは、音声とは「耳識によって聞かれる対象」であるという、そもそもの定義は間違いであるのか。もしそれが間違いであるとするならば、阿毘達磨論書に書いてあることも間違っているのか。

 結局の所、定義というのはたいてい便宜的に与えられたものに過ぎず、たった一つの定義で当該の概念の特質を全て言い表すことなど殆ど不可能に近い。その不可能性を実感した上で、より高度な理解に達すること。これがドゥラの問答の目指していることなのであるとすれば非常に納得がいくように思う。

 ところで、夏目漱石は「現代日本の開化」という講演の中で非常に興味深いことを述べている。「定義」というもののあり方について考える上では非常に示唆に富んだ指摘である。

「もっとも定義を下すについてはよほど気を付けないと飛んでもない事になる。これをむずかしく言いますと、定義を下せばその定義のために定義を下されたものがピタリと糊細工のように硬張ってしまう。複雑な特性を簡単に纏める学者の手際と脳力とには敬服しながらも一方においてその迂闊を惜しまなければならないような事が彼らの下した定義を見るとよくあります。その弊所を極く分り易く一口にお話すれば生きたものを故と四角四面の棺の中へ入れて殊更に融通が利かないようにするからである。」

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June 28, 2009

片手の鳴る音はさらに共鳴する

 今日チャムパ・トゥンドゥプ師に確認した所、「化作者が説法をする」というのは、仏陀が自らの神通力でもって樹に四法印の教えを語らせたという故事のことを指している。その話を聞いて、はっと思い出した。ぼくが最初にチベット人の先生からドゥラを習ったとき、何度も練習させられたトピックの一つにこういうものがある。

 「樹木が風で煽られて四法印を説いたときの経句は言葉であるか否か」

 実際、このような故事がどの経典に説かれているのだろうかという素朴な疑問をよそに(未だに疑問であるけれど)ぼくはクラスメート達とこの問題に関して議論を交わしたものであった。その当時は(2003年のことであった)この永遠に答えの出ない問題を議論することの意義があまり良く分からなかったが、今やっと分かった気がする。この議論は結局の所、『倶舎論』に説かれる音声の分類の弱点を突いたものなのである。

 『倶舎論』の体系では「有情であることを伝達する音声」というのは「語表業」(言葉)のことを指している。論理学的に言えば、両者は同延の関係にある。そして、語表業とは人間の発声器官から発せられるものである(昔のインドにはラジオもテレヴィジョンもなかったから)。すると、ここで問題が起こる。「無執受大種を因とする音声」であり、かつ「有情であることを伝達する音声」は語表業ではないのだろうか。というのも、それは人間の口から発せられたものではないのだから。もしそれが語表業でないとするならば、「有情であることを伝達する音声」と「語表業」の両者は同延とは言えないではないか。
 少なくとも『倶舎論』やその註釈文献には、この問題に関する突っ込んだ議論は見られない。そのため、後代のチベットの学者達は頭を悩ませたのであり、僧院では現在に至るまでこの問題が議論されているのである。

 2003年にデプン・ゴマン学堂で習った問答を文字に起こせば次のようになる。ちなみに、そのときの先生も、ガワンタシに倣って སེམས་ཅན་ལ་སྟོན་པའི་སྒྲ་ という表現を用いていた。

སེམས་ཅན་ལ་སྟོན་པའི་སྒྲ་དང་ངག་གི་རྣམ་པར་རིག་བྱེད་ཀྱི་སྒྲ་དང་བརྗོད་བྱེད་ཀྱི་སྒྲ་གསུམ་དོན་གཅིག་ཡིན་པར་ཐལ། ཡིན་པའི་ཕྱིར།
མ་གྲུབ་ན། དེར་ཐལ། རྩོམ་འཕྲོ་ལས། སེམས་ཅན་ལ་སྟོན་པའི་སྒྲ་དང་ངག་གི་རྣམ་པར་རིག་བྱེད་ཀྱི་སྒྲ་དང་བརྗོད་བྱེད་ཀྱི་སྒྲ་གསུམ་དོན་གཅིག ཞེས་གསུངས་པའི་ཕྱིར།
འདོད་ན། བརྗོད་བྱེད་ཀྱི་སྒྲ་ཡིན་ན་ངག་གི་རྣམ་པར་རིག་བྱེད་ཀྱི་སྒྲ་ཡིན་པས་ཁྱབ་པར་ཐལ། འདོད་པའི་ཕྱིར།
འདོད་ན། ལྗོན་ཤིང་རླུང་གིས་བསྐུལ་བ་ལས་ཆོས་ཀྱི་སྡོམ་བཞི་སྟོན་པའི་མདོ་ཆོས་ཅན། ངག་གི་རྣམ་པར་རིག་བྱེད་ཡིན་པར་ཐལ། བརྗོད་བྱེད་ཀྱི་སྒྲ་ཡིན་པའི་ཕྱིར། ཁྱབ་པ་ཁས།
འདོད་ན། དེ་ཆོས་ཅན། ངག་གི་རང་བཞིན་གྱི་སྒྲ་ཡིན་པར་ཐལ། ངག་གི་རྣམ་པར་རིག་བྱེད་ཀྱི་སྒྲ་ཡིན་པའི་ཕྱིར།
འདོད་ན། དེ་ཆོས་ཅན། རང་གི་རྒྱུ་སྐྱེས་བུའི་ལྕེ་རྐན་ལས་བྱུང་བ་ཡིན་པར་ཐལ། ངག་ཡིན་པའི་ཕྱིར།
ཁྱབ་སྟེ། ཕར་ཕྱིན་སྐབས་དང་པོ་ལས། རང་རྒྱུ་སྐྱེས་བུའི་བྱེད་པ་ལྕེ་རྐན་ལས་བྱུང་བ་ཡིན་པར་ཐལ། ངག་ཡིན་པའི་ཕྱིར། ཞེས་གསུངས་པའི་ཕྱིར།

གོང་དུ་འདོད་ན། དེ་ཆོས་ཅན། རང་རྒྱུ་སྐྱེས་བུའི་བྱེད་པ་ལྕེ་རྐན་ལས་བྱུང་བ་མ་ཡིན་པར་ཐལ། རང་རྒྱུ་སྐྱེས་བུའི་བྱེད་པ་མ་ཡིན་པ་ལས་བྱུང་བ་ཡིན་པའི་ཕྱིར། དེར་ཐལ། ལྗོན་ཤིང་རླུང་གིས་བསྐྱོད་པ་ལས་བྱུང་བ་ཡིན་པའི་ཕྱིར། དེར་ཐལ། ཆོས་ཅན་དེ་དང་གཅིག་ཡིན་པའི་ཕྱིར།

 今日はチャムパ師とこの話で大いに盛り上がってしまった。議論はさらに白熱して、『倶舎論』の体系ではテレヴィジョンの音声は何に該当するのか、ダライ・ラマの説法をスピーカー越しに聞くとき、果たして我々は説法を聞いていると言えるのか、等々の問題についても考えたりした。
 この種の答えの出ない問題について思考を巡らせるとき、ぼくの心持ちは激しく昂揚することがある。その心持ちをぼくは(残念ながら、というべきであろうか)こんな言葉でしか言い表すことができない。それは「幸福感」である。きっとチベットの学僧達も同じ思いをしているのであろう。ドゥラの問答とは、決して単なる「言葉遊び」ではないし、「議論のための議論」であるとして非難されるべきものでもない。そこには紛れもなく、他では体験することのできない圧倒的な幸福感がある。

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June 27, 2009

片手の鳴る音は共鳴する

 前回の記事に関して補足したい。

(1)有執受大種とは、ヤショーミトラの註釈によれば、感官(眼、耳、鼻、舌、身)を離れずに共起する大種(地、水、火、風)のことである。では、その場合「有執受大種を因とする音声」とは何のことを意味するのだろうか。
 おそらく、答えはこうではないだろうか。音の発生源に有情の身体が直に触れている場合、その音声は「有執受大種を因とする音声」である。逆に、音の発生に有情が全く関わっていない場合、もしくは、音の発生に有情が関わっていても、発生源に身体が触れていない場合、それらの音声は「無執受大種を因とする音声」である。
 鼓を手で叩いて鳴らす音が「有執受大種を因とする音声」であるのは、音の出所に手が接触しているためである。一方、銅鑼の音が「無執受大種を因とする音声」であるのは、音の出所に触れているのがマレットであって、奏者の手ではないからである。
 ということは、ヴァイオリンやヴィオラを弓を用いて鳴らすとき(arco)、その音は「無執受大種を因とする音声」であるが、弦を指で弾いて鳴らすならば(pizz.)、その音は「有執受大種を因とする音声」であることになる。ただし、バルトーク・ピツィカートの場合は「無執受大種を因とする音声」に該当するかもしれない。バルトーク・ピツィカートについてはWikipediaの「ピツィカート」の項を参照。(ちなみに、ぼくはヴィオラの譜面でバルトーク・ピツィカートの指示に出くわした経験がないけれども、以前マーラーの交響曲第五番に参加したとき、指揮者が指示して、五楽章でコントラバスにバルトーク・ピツィカートを使わせていたのを思い出す。あれは非常に効果的な演出だったなと思う。)


(2)アサンガの見解では「有執受大種と無執受大種の両者を因とする音声」というものも認められる。『大乗阿毘達磨集論』の註釈によれば、例えば鼓(つずみ)と手のひらが合わさって鳴る音がそれである(tadubhayas tadyathā hastamṛdaṅgaśabdaḥ)。しかし、毘婆沙師はこの説を認めず、鼓と手のひらが合わさって鳴る音は「有執受大種を因とする音声」であると見なすようである。

(3)「〔それを発したのが〕有情であることを伝達する音声」と訳したསེམས་ཅན་དུ་སྟོན་པའི་སྒྲ་は、どういうわけかゲルク派では「有情に向かって〔意味を〕伝達する音声」と誤解されることがある。この点に関して興味深いのは、ガワンタシの『セードゥラ』に見られるསེམས་ཅན་ལ་སྟོན་པའི་སྒྲ་という表現である。སེམས་ཅན་ལ་སྟོན་པའི་སྒྲ་と言うならば、それはほぼ間違いなく「有情に向かって伝達する音声」のことである。
 この誤解が起こるのは、この概念が「語表業」と同一視されるためであろうか。「語表業」とは要するに人間が口から発する言葉のことである。言葉は「有情に向かって」発せられるものであるという前提からこのような誤解が起こるのは仕方ないにしても、ヤショーミトラも説明するように「語表業」とは「これは有情である」という理解を聞き手にもたらすような音声のことである(vāgvijñaptiśabdena hi sattvo 'yam iti vijñāyate)。
 いずれにしても、「〔それを発したのが〕有情であることを伝達する音声」とは結局の所、有意味な言葉を指していることに違いはない。

(4)ケンチェン・ゲンドゥンギャンツォはチム・ジャムぺーヤンの『倶舎論疏・善説大海』の書名に言及するが、同書には該当する記述が見られない。ギェルワ・ゲンドゥンドゥプの『倶舎論釈・解脱道解明』と混同しているのであろうか。

(5)化作者とは「神境智証通」と呼ばれる神通力によって化作された者(人、天)のことを指している。『倶舎論』智品によれば、仏陀や声聞や独覚は、思い通りに自分や他者の姿を変えてみせることが可能である(AK 8.49 ff.)。さらにまた、チャムパ・トゥンドゥプ師の教示によれば、彼らは樹や石を人の姿に化作して、言葉を話させることができるという。
 ここで「化作者が説法をする」ないし「化作者が悪言を語る」という場合には、例えば樹や石といった物体を人の姿に化作して言葉を語らせるようなケースを想定すれば良い。その言葉が発せられる出所に有情の感官は接触していないので、それは「無執受大種を因とする音声」であることになる。同時にそれは聞き手に意味内容を伝える働きを有することから「〔それを発したのが〕有情であることを伝達する音声」である。

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June 21, 2009

片手の鳴る音は?

 いま隔週でチャムパ・トゥンドゥプ師に『定説規定・宝蔓』(クンチョク・ジクメワンポ作)を講義してもらっている。
 本日の講義の中で、毘婆沙師の学説における「音声」の細かな分類に関する議論があったが、判然としない点が幾つかあったので詳しく調べてみた。当然予想されるように、当該の問題に関するゲルク派の理解はヴァスバンドゥの『倶舎論』界品に基づくものである。ギェルワ・ゲンドゥンドゥプの『倶舎論釈・解脱道解明』にも簡潔にして要点を得た説明があるが、ここではケンチェン・ゲンドゥンギャンツォの『ケンチェン・ドゥラ』が与える説明を紹介することにしたい。以下が『ケンチェン・ドゥラ』の該当箇所(p. 64 ff.)の試訳である。

  * * *

音声もしくは声処を大きく分類すれば、[1]有執受大種を因とする音声と[2]無執受大種を因とする音声の二種がある。

[1]
前者には、[1-1]有執受大種を因とし〔それを発したのが〕有情であることを伝達する音声と、[1-2]有執受大種を因とし〔それを発したのが〕有情であることを伝達しない音声の二種がある。

[1-1]
さらに、前者のそれには、[1-1-1]有執受大種を因とし〔それを発したのが〕有情であることを伝達する聞き心地の良い音声と、[1-1-2]有執受大種を因とし〔それを発したのが〕有情であることを伝達する耳障りな音声の二種がある。

[1-1-1]
第一のものは、例えば人が説法をするときの音声である。

[1-1-2]
第二のものは、例えば人が悪言を語るときの音声である。

[1-2]
第二に、有執受大種を因とし〔それを発したのが〕有情であることを伝達しない音声にもまた、[1-2-1]有執受大種を因とし〔それを発したのが〕有情であることを伝達しない聞き心地の良い音声と、[1-2-2]有執受大種を因とし〔それを発したのが〕有情であることを伝達しない耳障りな音声の二種がある。

[1-2-1]
第一のものは、例えば鼓(つずみ)と手のひらが合わさって鳴る音である。というのも、チム〔ジャムぺーヤン〕の『倶舎論疏・善説大海』に「鼓と手のひらが合わさって鳴る音や…」と説かれているからである。

[1-2-2]
第二のものは、例えば拳骨で打ったときの音である。

[2]
第二に、無執受大種を因とする音声にもまた、[2-1]無執受大種を因とし〔それを発したのが〕有情であることを伝達する音声と、[2-2]無執受大種を因とし〔それを発したのが〕有情であることを伝達しない音声の二種がある。

[2-1]
さらに、前者には[2-1-1] 無執受大種を因とし〔それを発したのが〕有情であることを伝達する聞き心地の良い音声と、[2-1-2] 無執受大種を因とし〔それを発したのが〕有情であることを伝達する耳障りな音声の二種がある。

[2-1-1]
第一のものは、例えば化作者が説法をするときの音声である。

[2-1-2]
第二のものは、例えば化作者が悪言を語るときの音声である。

[2-2]
第二に、無執受大種を因とし〔それを発したのが〕有情であることを伝達しない音声にもまた、[2-2-1]無執受大種を因とし〔それを発したのが〕有情であることを伝達しない聞き心地の良い音声と、[2-2-2]無執受大種を因とし〔それを発したのが〕有情であることを伝達しない耳障りな音声の二種がある。

[2-2-1]
第一のものは、例えば銅鑼(どら)の音である。

[2-2-2]
第二のものは、例えば崖崩れの音である。

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June 01, 2009

どれもこれも世界ばかりだ

 村上春樹の新作を読み終えた。これまでの作品と同様、文章はとても平明であるが、そこに与えられている問題は決して安易な解決を許さず、全ての読者を混乱の底に陥れるものではないだろうか。
 本書を読んで自分が最初に受けた印象はこうである。この作品のテーマは宗教と暴力(殊に家庭内暴力)なんだなと。そして、入れ子のような構造になっている複数の物語(物語の内部で物語が語られるのだが、次第に内部の物語の中に外部の物語が包摂されていく)に目を奪われないわけにはいかなかった。
 しかし、見かけにだまされないように注意深く読んでいると、作品のもっと重要なテーマは、贖罪と悔恨(Buß' und Reu')であると思うようになった。男主人公がその魅力を熱弁する数学の世界、そしてまた、作品の構成とも密接な関係を有する「平均律クラヴィーア曲集(第一巻・第二巻)」は、主人公があこがれる理想の世界なのである。贖罪もなければ、悔恨もない世界。暴力も宗教も差別も偏見もない世界。誰も余計な思い煩いをしなくてよい世界。

 贖罪だの悔恨だのといった問題は、キリスト教では重要かもしれないが、仏教ではあまり大きな意味を持たないように思われる。世界の創造神というものを認めない仏教教義によれば、悪とは全て有情が作り出したものであり、その報いは本人が望もうと望むまいと必ず受けることになっている(事前に罪障の浄化[སྡིག་པ་བཤགས་པ་]を行なわない限りは)。そして、当人がいったん悪業の報いを受けてしまえば、それでもう話はおしまいである。既に異熟をもたらした業から、再三にわたって異熟果がもたらされることはあり得ないとされている。
 このように仏教では、後悔しようが、逡巡しようが、あるいは、後悔も逡巡もしなくても、業果の法則(それはまるで自然界の法則のようなものだ)が全てを解決するのであって、罪を犯した者が自らの罪の意識や呵責の念をどうやって処理するかというのは二次的な問題に過ぎない。もちろん、罪障の浄化を適切に行なえば、悪業の報いを受けなくて済むかもしれないが、それによって魂が浄化されて天国に行くというような話とはわけが違う。
 仏教の業報思想のこういった「もの分かりの良さ」は、少なくともぼくにとって、物足りなさを感じる所でもある。例えば『タンホイザー』の主人公のように、逡巡したり、悔恨したりする生身の人間の姿がそこにはないからだ。

 ところで、ツォンカパの『ラムリム・チェンモ』に次のような記述がある。修行者が輪廻世界は全て苦しみに他ならないということを知り、解脱を追求するようになるためには、お腹を空かした北国の子どものような気持ちになればよいのだとツォンカパは説く。「あれも世界だ。これも世界だ。どれもこれも苦しみばかりだ」というセリフから、村上春樹が描く「複数の世界」のことを想像してしまうのは自分だけであろうか。

བྱང་ན་རྩམ་པ་དཀོན་པས་ཉུང་མ་ཉི་ཚེ་ཟ་བས་བྱིས་པ་ཞིག་བཀྲེས་ཏེ་རྩམ་པ་ཟ་འདོད་ནས། མ་ལ་ཟས་བསླངས་པ་ལ་མ་ལ་རྩམ་པ་མེད་པས་ཉུང་གཤེར་ [171a5] ཞིག་བྱིན་པས་དེ་མི་འདོད་ཟེར། དེ་ནས་ཉུང་མ་སྐམ་པོ་ཞིག་བྱིན་པས་མི་འདོད་ཟེར། དེ་ནས་ཉུང་མ་ཕོ་ཤ་ཞིག་བྱིན་པ་ལ་ཡང་ང་མི་འདོད་ཟེར། དེ་ནས་ཉུང་མ་བཙོས་འཁེངས་ཞིག་བྱིན་པས་དེ་ཡང་ང་མི་འདོད་ཟེར་ཞིང་ཁོ་མ་ [171a6] མགུ་ནས་དེ་ཡོ་ཉུང་མ་ཡིན་ཟེར་ལོ། ། དེ་བཞིན་དུ་རང་ཅག་ཀྱང་འཇིག་རྟེན་གྱི་བདེ་བ་གང་མཐོང་བ་དང་ཐོས་པ་དང་དྲན་པ་ཐམས་ཅད་ལ་དེ་ཡང་འཇིག་རྟེན་ཡིན། དེ་ཡང་འཇིག་རྟེན་ཡིན། དེ་ཡོ་སྡུག་བསྔལ་ཡིན། ཅིས་ཀྱང་བྱར་མེད་ [171b1] སྙམ་ནས་སྐྱུག་ཏིང་ཏིང་བ་དགོས་
北国ではツァンパ(麦こがし)が貴重であるため、わずかばかりのカブしか食べる物がないので、ある子どもがお腹を空かしてツァンパを食べたいと思った。そこで母親に食べ物をねだったところ、母親はツァンパを持ち合わせていないので、みずみずしいカブを与えてやったのだが、「それほしくない」と〔その子は〕言う。そこで、干からびたカブを与えても「ほしくない」と言う。次に煮たカブを与えたが、それでもなお「ぼくいらない」と言う。最後に煮た後に冷めて固くなったカブを与えたが「それもぼくいらない」と言う。その子はがっかりして「どれもこれもカブばかりだ」と言ったのだという。これと同様に、我々もおよそ何であれ世界における安楽を目にしたり、耳にしたり、あるいは思い出したとしても「あれも世界だ。これも世界だ。どれもこれも苦しみばかりだ。もう何もするまい」と考えて、強烈な吐き気を催すようにしなければならない。

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May 28, 2009

花にして花にあらず

 先日、ロサン・ゲレク師による『セードゥラ』の講義の録音を聞き直していたら、途中でゲレク師が「いやぁ、難しい問題ばかり考え過ぎて頭が痛くなったね」と言っている場面があった。その講義を受けていたぼくはそれを冗談半分に受け止めたらしく、苦笑しながら「そうですね、私も頭が痛くなりました」と適当に受け答えしたりしていた。
 だが、あまりに頭脳を使い過ぎると、メタファーではなしに、本当に頭が痛くなったり、肩が凝ったりことがある。今日のガワン・ドルジェ師による『セードゥラ』の「帰謬法の規定」の講義はまさに頭痛の種であり、すっかり疲れ果ててしまった。

 帰謬法というのは、言わずと知れたインド仏教に由来する論証方法の一種であり、論争相手が認める事柄を論拠にして相手が認めない帰結を導き出すというものである。しかし、ドゥラの中で取り上げられる帰謬法には、おそらく元々インドにはなくチベットで独自に発展したと思われる考え方が多くある。例えば、སྔ་བཙན་/བར་བཙན་/ཕྱི་བཙན་ という概念がある。これらは従来の研究では、なぜか「三つの時間(未来・現在・過去)」のことを指すものと理解されているが(P. Hugonによる最新の研究書においてすら、それは“les trois temps”と訳されている)実は時間論とは全く関係がない概念である。ドゥラにおいては、主題ー帰結ー証因からなる論証式を立てる(ドゥラ文献の中では、主題を欠いた論証式や、証因を欠いた論証式についての議論もある)。例えば、「音声ー主題ーは無常であることになる。作られたものであるゆえに」といったように。
 「帰謬法の規定」によれば、複数の主題を持つ論証式や、複数の帰結を持つ論証式も存在する。複数の主題を持つ論証式とは、例えば、

(主題:)གཟུགས་ཆོས་ཅན། སྒྲ་ཆོས་ཅན། ཀྭ་བ་ཆོས་ཅན། བུམ་པ་ཆོས་ཅན།
(帰結:)མི་རྟག་པ་ཡིན་པར་ཐལ།
(証因:)བྱས་པ་ཡིན་པའི་ཕྱིར།

といったものである。この論証式では主題が四つある。ここでの主題は「色」「音声」「柱」「壺」である。そして、帰結は「無常であることになる」、証因は「作られたものであるゆえに」である。だが、もしここでསྔ་བཙན་の規則を適用するならば、言い換えれば、先頭の語を主要素と見なすならば、上の論証式は次のようにも解釈できる。

(主題:)གཟུགས་ཆོས་ཅན།
(帰結:)སྒྲ་ཆོས་ཅན། ཀྭ་བ་ཆོས་ཅན། བུམ་པ་ཆོས་ཅན། མི་རྟག་པ་ཡིན་པར་ཐལ།
(証因:)བྱས་པ་ཡིན་པའི་ཕྱིར།

 こうすれば、主題は「色」であり、帰結は「音声ー主題、柱ー主題、壺ー主題、無常であることになる」、証因は「作られたものであるゆえに」となる。また、当該の論証式をབར་བཙན་、すなわち、中間部を主要素と見なすならば、例えば、

(主題:)གཟུགས་ཆོས་ཅན། སྒྲ་ཆོས་ཅན།
(帰結:)ཀྭ་བ་ཆོས་ཅན། བུམ་པ་ཆོས་ཅན། མི་རྟག་པ་ཡིན་པར་ཐལ།
(証因:)བྱས་པ་ཡིན་པའི་ཕྱིར།

といった解釈が可能である。『セードゥラ』ではこうした理論を踏まえた上で、一見すると詭弁とも思われる議論が多く展開される。

 帰謬法に関する議論の煩雑さもさることながら、他にもっと煩雑なトピックがある。ぼくの今までの経験からチベット論理学における「頭痛の種」ベスト3を挙げるならば、
  1. チャパ説における実在と排除的存在の規定(ཆ་བའི་ལུགས་ཀྱི་རྫས་ལྡོག་གི་རྣམ་གཞག་)
  2. 知覚不可能なものの非認識に基づく証因(མི་སྣང་བ་མ་དམིགས་པའི་རྟགས་)
  3. 帰謬法の規定(ཐལ་གྱུར་ཆུང་ངུའི་རྣམ་གཞག་)
といった所であろうか。あるいは、これらに上回るヘヴィーな議論が今後見つかるかも知れない。

 緊張した頭をほぐすために、今日は家に帰ってトルーマン・カポーティの短編『花盛りの家』を読んだ。翻訳はもちろん村上春樹である。二十世紀のお伽話と形容したくなるような、うつくしい話である。有名な『ティファニーで朝食を』の新訳が素晴らしいのは当然のこととして、『花盛りの家』もまた、うつくしくて、はかない物語であることを知った。明日には村上春樹の新作『1Q84』が発売される。読むべき本は増えるばかりだ。

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March 27, 2009

イェルサレムの壁とユマニスム

 今枝由郎先生の講義録「星の王子さまとダライ・ラマ十四世---ユマニストの系譜---」(『言語文化』26: 3-27)を拝読した。2008年6月25日に明治学院大学で開催された講演を文字に起こしたものである。

 講演の内容は、フランスに根付くユマニスム(humanisme)の観点からダライ・ラマ十四世の思想を解釈し、なおかつ、それをサン=テグジュペリの名作『星の王子さま』の世界観に結び付けて論じるという非常に大胆なものである。端的に言えば、人間を尊重し、より人間らしく生きることを目指すのがユマニスムの精神である。この講義の中で言及される渡辺一夫氏の言葉を借りれば、人間疎外の傾向が高まる現実の世界に向かって、

 「それは人間であることと何の関係があるのか」

と問い続ける者、それがユマニストである。そして、講義によれば、「私のような一宗教者が世の中のことを変えることはできない。しかし、変えられないからといって、黙っているわけにはいかない」と述べるダライ・ラマ十四世はユマニストに他ならない。

 「普遍的責任」(universal responsibility)、「脱=宗教的倫理」(secular ethics)、これらはダライ・ラマ十四世の平和思想を聞きかじったことのある人なら、誰でもなじみのあるタームであろう。この二つの言葉が意味するのは、特定の国家や人種や文化や宗教の枠組みを超えて、全ての人間(あるいは、もっと本当のことを言えば、動物等々も含めた全ての有情)の幸福を追求する態度のことである。中国の警察や軍隊がチベットで現に行なっている所業がいかに残虐であろうとも、いかに非人間的であろうとも、中国人に対して暴力で対抗するならば、それは自らが人間であること、すなわち、ユマニテ(humanité)を放棄する行為に等しい。だから、ユマニストであろうとするならば、特にこれといって何か派手なことができるわけではない。基本的にユマニストとは非力な存在である。自らが非力な存在に過ぎないことを分かった上で、なおも「壁」にぶつかる「卵」となる道を選択するのがユマニスムの宿命なのであろう。

 今枝先生の講義録を読んですぐに連想するのは、イェルサレムという「街」の「壁」にぶつかっていくことを自らに課した作家、村上春樹の勇敢な行動である。最新号の『文藝春秋』(2009-4)には村上春樹のインタヴューと受賞スピーチ全文が掲載されている。村上春樹は「街と、その不確かな壁」(『文學界』1980-9)という小説---これが後に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という長篇作品へと発展する---を書いていた時点から既に、「壁」に取り囲まれた人間の宿命的とも言える有限性を見つめていた作家である。

 村上春樹の祖父と父は浄土宗の僧侶であったそうだ。村上春樹はイェルサレムでのスピーチの中でも自身の父について言及している。

My father died last year at the age of ninety. He was a retired teacher and a part-time Buddhist priest. When he was in graduate school, he was drafted into the army and sent to fight in China. As a child born after the war, I used to see him every morning before breakfast offering up long, deeply-felt prayers at the Buddhist altar in our house. One time I asked him why he did this, and he told me he was praying for the people who had died in the battlefield. He was praying for all the people who died, he said, both ally and enemy alike. Staring at his back as he knelt at the altar, I seemed to feel the shadow of death hovering around him.

 最初、日本語訳でこの箇所を読んだ時に「父が祈っている姿を後ろから見ていると、そこには常に死の影が漂っているように、私には感じられました」というのが正直ぴんとこなかった。「父の死が迫っている」という意味にも読めたからだ。だが、原文にはthe shadow of death hovering around himとある。戦争で命を失った者達の亡霊が行き交う中で父は祈りを捧げていた、といったような意味であることが分かる。

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March 22, 2009

花は笑い、鳥が唄う

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国立がんセンター中央病院からほど近い浜離宮にて撮影。

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March 03, 2009

ツォンドゥ

 「精進」という仏教用語は「努力すること」「励むこと」の意味で理解されがちであるが、精進と努力は全く異なった心の働きである。また、「懈怠」は「怠惰なこと」「努力しないこと」の意味で理解されそうな言葉であるが、実は「懈怠」という語には「怠惰」以外の意味も含まれている。
 これらのことについては、ジャムヤンシェーパ・ガワンツォンドゥが極めて明快な説明を与えている。まず、ジャムヤンシェーパは『サムスク・チェンモ』の中で「精進」を次のように定義する。

དམིགས་པ་དགེ་བ་ལ་དམིགས་ཤིང་སྤྲོ་བའི་སེམས་པ་བརྩོན་འགྲུས་ཀྱི་མཚན་ཉིད་ཡིན་ཏེ་དད་པ་ལྟ་བུ་དགེ་བ་ལ་དམིགས་ཀྱང་མི་སྤྲོ་བ་དང་སྤྲོ་ཡང་མི་དགེ་བ་ལ་སྤྲོ་བ་ལེ་ལོ་ཡིན་པས་མཚན་ཉིད་ཀྱི་ཁྱད་པར་གཉིས་ཀ་དགོས་པའི་ཕྱིར་ཏེ།

「善の所縁を所縁として喜ぶ心の働き」が「精進」の定義である。例えば「信」などといった善なるものを所縁としているが喜ばないことや、喜んではいても不善を喜ぶことはいずれも「懈怠」であるので、〔「精進」の〕定義には〔上の〕二つの限定要素が必要だからである。

 ここでジャムヤンシェーパが述べているように、「精進」とは善に励むことではなく、むしろ善に励むことを喜ぶ気持ちのことを指している。そして、善に喜びを感じないことや、不善に喜びを感じることはいずれも「懈怠」である。例えば、いくら人のためになる立派な仕事をしたとしても、その仕事に喜びを感じることができないならば、その時の心理状態は精進ではなく懈怠に他ならない。また、人を哀しませたり傷つけたりするような行為に喜びを覚えるならば、その場合の心理状態もまた懈怠である。
 では、懈怠とは何か。懈怠とは、精進と正反対の心の働きのことであり、それには三種類のものがある。怠惰であること(སྙོམས་ལས་ཀྱི་ལེ་ལོ་)、悪行に努めること(བྱ་བ་ངན་ཞེན་གྱི་ལེ་ལོ་)、そして、「自分には無理だ」と思う自信喪失(སྒྱིད་ལུག་གི་ལེ་ལོ་)とである(cf. Bodhicaryāvatāra 7.2)。この三ついずれもが「懈怠」であるので、懈怠とは必ずしも怠けることであるとは限らないことが分かる。

 さらに、ジャムヤンシェーパは「精進」と「努力」の相違を明らかにするために次のことを述べている。

སྤྱིར་རྩོལ་བ་དང་བརྩོན་འགྲུས་གཉིས་ལ། རྩོལ་བ་ཡིན་ལ་བརྩོན་འགྲུས་མ་ཡིན་པ་དང་། བརྩོན་འགྲུས་ཡིན་ལ་རྩོལ་བ་མ་ཡིན་པ། གཉིས་ཀ་ཡིན་པ། གཉིས་ཀ་མ་ཡིན་པ་སྟེ་མུ་བཞི་ཡོད་དེ། ལུང་མ་བསྟན་ལ་རྩོལ་བ་ལྟ་བུ་དང་པོ། དགེ་ལ་སྤྲོ་ཡང་འདུ་མི་བྱེད་པ་ལྟ་བུ་གཉིས་པ། དགེ་ལ་སྤྲོ་ཤིང་རྩོལ་བ་ལྟ་བུ་གསུམ་པ། རྣམ་ཤེས་ལྟ་བུ་བཞི་པ་ཡིན་པའི་ཕྱིར།

一般に「努力」と「精進」の両者には(1)努力であるが精進でないもの、(2)精進であるが努力でないもの、(3)二者いずれでもあるもの、(4)二者いずれでもないもの、という四句分別が成り立つ。〔善、不善のいずれでもない〕無記のものに励むことは第一のものであり、善を喜んではいるが励まないことは第二のものであり、善を喜び、かつ、励むことは第三のものであり、識といったものは第四のものであるゆえに。

 既に述べられているように、善を喜ぶのが精進であり、不善を喜ぶのが懈怠である。善、不善のいずれでもない事柄を頑張って成し遂げようとする人は「努力」しているかもしれないが、決して「精進」しているとは言えない。例えば、このブログに記事を書く作業などは「努力」であるかもしれないが「精進」ではない。
 時として人は善を讃えたり、善に感銘を受けることもある。しかし、単に喜んでいるだけで自身では何もせず、ただじっとしていることの方が多いのではないだろうか。そのような人は「努力」しているとは言えないが、その時の心には「精進」という心理作用が働いていることになる。精進だけなら、場合によっては、青空の下でのんびりと鼻歌を唄いながらでもできるだろうし、白い浜辺で波の切れ目を探しながらでもできる。精進は努力とは異なるのだ。

 ところで、以前『ツォンドゥ』というタイトルのラダック映画を観たことがある。「ツォンドゥ」とはチベット語(あるいはラダック語)で「精進」を意味する。日本ではいかにも流行らなさそうなタイトルだ。
 ラダック人のキャストによる全編ラダック語の映画である。英語の字幕がついていたおかげで、内容を追いかけることができた。貧しい家で育った主人公の少女が「精進」(つい「努力」と言ってしまいたくなる)して自分の夢をかなえるというサクセス・ストーリーである。
 ある裕福な家庭で召使いとして働くことになった主人公には数々の苦難が襲いかかる。かたや、その家で甘やかされて育った二人の兄妹は毎日遊んでばかりで、ろくに勉強もしないでいた。これを見かねた母親は二人のために家庭教師をつけるのだが、この兄妹は勉強を召使いの女に押し付け、ディスコ(っぽい設定の所だったと思う)や酒場に入り浸る毎日を続けた。
 家庭教師の先生は召使いの女主人公に勉強の才能があることを見抜き、ひそかに特別レッスンをしてあげた。そして、最後には女主人公がのらくら兄妹を追い抜いて、大学に入り(この当たりの話の展開には、ちょっとどころでない飛躍があったと思う)、教師の資格を得て、故郷の学校で子供たちに勉強を教える先生になる。
 突っ込み所の多いローコストの映画であったが、今になってよく考えると、この女主人公は単に勉強に励むだけでなく、そうして励むことに喜びを感じる人であった。決して我慢とか忍耐だけの人ではなかった。その意味でこの「ツォンドゥ」という映画は、ジャムヤンシェーパ・ガワンツォンドゥが与える「ツォンドゥ」の定義に反していないことになる。

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February 04, 2009

ནོར་ཞིང་མི་གསལ་འཁྲུགས་པའི་རྣམ་པ་ཅན། །

 以前ここに記したように、ポトンパンチェン・チョクレーナムギェルは『思択炎』の著者問題に関して興味深いコメントをしており、そのことは既にvan der Kuijp氏によって報告されている。ただし、van der Kuijp氏の論考ではテクストの該当箇所のロケーションが与えられているのみであり、詳細な情報は与えられていない。実際にテクストを読んでみると、そこには非常に面白いことが書かれてあると思ったので、自分のためのメモとして以下に原文と試訳を示しておきたい。

  * * *

Vol. 7 (Tsha), 210b2-5 (p. 418):
སྐལ་ལྡན་གྱི་སྦྱར་འགྲེལ་པ་འདི་ཉིད་ནི། །
ནོར་ཞིང་མི་གསལ་འཁྲུགས་པའི་རྣམ་པ་ཅན།
ཡི་གེ་དོན་ལས་གཞན་དུ་སྣང་བའི་ཕྱིར།
སྙིང་པོ་མཛད་པ་དག་གི་མན་
(Read མིན་) པར་ཤེས།


འདི་ཡི་འཚམས་སྦྱོར་དག་གི་ཚིག་ཏུ་ཡང་།
དེ་ལ་སློབ་དཔོན་འདི་བཞིན་འཆད་ཅེས་པས།
རྩ་བ་བྱེད་པོ་རང་གི་སློབ་དཔོན་དུ།
གསལ་བར་སྟོན་པའི་ཚིག་ཀྱང་སྣང་ཕྱིར་རོ། །


གལ་ཏེ་སློབ་དཔོན་རང་དང་སྔོན་རབས་ཀྱི།
འཕགས་པ་ལྷ་སོགས་འདིར་ནི་རྗོད་མཛད་ཅིང་།
འགྲེལ་འདི་རང་གི་མཛད་པ་ཡིན་ན་ནི།
སྒྱུར་བྱེད་མཁན་པོ་རྣམས་ཀྱི་དྲི་མར་ཟད།


バヴィヤ作〔とされる〕本註釈は誤りがあり、不明瞭であり、混乱が見受けられ、記されている事柄は実際に意味する事柄と異なっていると思われるので、『〔中観〕心論』をお作りになった者(者達?)の作ではないことが分かる。

さらに、本書で〔偈頌への〕導入部の言葉の中に「それについては、この軌範師の〔お考え〕通りに説明しよう」とあるように、本頌の作者を〔註釈作者〕自身の軌範師であるとして明示している言葉も見受けられるからである。

もし「軌範師」とあるのは〔バヴィヤ〕本人のことであるか、もしくは、ここで言及なさっているのは前時代のアールヤデーヴァなどといった者のことであり、本註釈はご自分がお作りになったのであるならば、〔本註釈に誤り等が見られるのは〕翻訳した学者達の過誤であるに過ぎないであろう。

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